みなさん、こんにちは!
りょう先生です。
今日から歴史総合について、勉強していきましょう!
歴史総合は、日本を取り巻く世界の歴史を「近現代」中心に見ていく科目です。
歴史総合を理解すると、日本史の勉強にもなります。
ぜひ、どちらの科目も一緒に勉強して、相乗効果的に学習を進めていきましょう!
イスラーム帝国の繁栄
さて。近代以前のアジアを語る上で外すことができないのが「イスラーム」帝国の存在です。
日本人にとっては、あまり印象が薄いかもしれないイスラーム(イスラム教)ですが、現在でもムスリム(イスラーム教徒)は、世界で約19億人いると言われています。
世界の4人に1人がムスリム。
イスラームの特徴は「政教一致」と言うこと。
政治と宗教が一致しており、宗教指導者が政治を行う、と言う点にあります。
なので、政治と宗教の教え、生活規範が一致しているので、とてもわかりやすい。
その辺りの「わかりやすさ」が、信じる人々が多い、と言う点なのだと思います。
さて。16世紀頃、アジアはまさにイスラーム全盛期。
オスマン帝国、サファヴィー朝、ムガル帝国という3つのイスラーム帝国が繁栄します。
まずトルコ人の建国によるオスマン帝国。
コンスタンティノープル(現イスタンブール)を攻めおとし、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)を滅ぼしました。
その後、スレイマン1世のときに地中海沿岸まで勢力を拡大。
その国の特徴はミレットという宗教共同体ごとの自治を認めたこと。
こうした自由度の高さから、地中海貿易を中心にヨーロッパとの交易が進みました。
続いて、サファヴィー朝です。
こちらはティムール朝の解体後16世紀初め頃、イスマーイールが立てた王朝で今のイランのあたりを中心に栄えます。
「世界の半分」とまで言われた首都イスファーンを中心に栄えていきました。
ちなみにオスマン帝国がイスラームのスンナ派だったのに対して、サファヴィー朝はシーア派を国教にしていました。
最後はムガル朝。
今のインド北部のあたりを中心とした帝国です。
第3代皇帝アクバルが中央集権体制を整備するとともに、ヒンドゥー教徒の融和をはかりました。
非ムスリムへのジズヤ(人頭税)を廃止し、タージ=マハルやインド=イスラーム文化も栄えました。

第6代皇帝アウラングゼーブの時代に領土が最大化。
しかし、アウラングゼーブがジズヤ(人頭税)を復活させたことで、非ムスリムの反発を招き、やがて衰退していきました。
貿易でうるおう東アジア
15〜16世紀、ヨーロッパが大航海時代に突入すると、西欧諸国がアジアに進出してきました。
ヨーロッパは早くからインドのムガル帝国に進出していましたが、東南アジアにも貿易の拠点を置くようになってきました。
このなかで主導権を握ったのが1602年に東インド会社を設立したオランダでした。
「東インド」というのは、まさに「インドの東」。
インドをさらに東に行くと東南アジアに行きつきますね。
ヨーロッパ勢力の進出は、東南アジアにも多くの富をもたらしました。
とくにタイのアユタヤ朝、マレー半島のマラッカ王国は国際貿易によって栄えていきます。
明の海禁政策
14世紀半ば、中国ではモンゴル民族が建てた元が北方に追いやられ、漢民族による明が成立しました。
この民を成立させたのは、貧農の孤児から皇帝になった洪武帝です。
洪武帝は独裁体制をしいて、外交面では朝鮮王朝や日本、東南アジアと積極的に朝貢貿易を進めました。
朝貢貿易とは、ある国が中国の皇帝を「あなたの国は偉い!」と認めて、貢ぎ物を持っていく貿易のことです。
中国はより高価なものを返礼品として渡します。
「中国先輩は偉い!」とプライドを捨てて後輩の立場で「中国グループ」に入ることで、いい目が見られる、という仕組みだったんですね。
この時、中国は貿易を全て皇帝の管理下に置き、民間の自由な貿易を禁止しました。
これを海禁と言います。
3代皇帝永楽帝の時代も朝貢体制を継続し、鄭和(ムスリムの宦官)率いる第艦隊を派遣して、交易の領域を拡大させました。
しかし、中国沿岸部では、海禁政策に逆らい、勝手に貿易(密貿易)する集団が発生。
これを倭寇と呼びます。
当初の倭寇(前期倭寇)は日本人が中心でしたが、16世紀以降の倭寇(後期倭寇)は中国人が中心となりました。
清の自由放任政策
明のあと、中国を支配したのは満洲人が建てた清です。
清は北京に都を置き、満洲人の王朝でありながら、漢民族を排除しませんでした。
明の官僚制や、官僚になるための試験制度科挙などを継続。
優秀な漢民族を官僚にして国家運営を行いました。
これを満漢併用と言います。
チベットではダライ=ラマを教主するチベット仏教を保護する一方、政治批判の言論には厳しく弾圧。
漢民族の男性には満州族の風習である辮髪を強制しました。

経済政策は明よりも自由で、商人どうしの自由な貿易も認められました。
清はヨーロッパに茶・絹・陶磁器などを輸出し、メキシコ産・日本産の銀などを手に入れました。
幕藩体制の日本
この頃の日本はというと、1603年に江戸幕府を開いた徳川家康は東南アジアと朱印船貿易を進めました。
さらに対馬藩を通じて朝鮮との交易をすすめていきました。
しかし、キリスト教の拡大を恐れ、徐々にヨーロッパ人の自由な来航を制限するように。
1637年に九州で島原の乱が起こると、1639年にはポルトガル船の来航を禁止。
ヨーロッパでは、オランダにだけ、長崎の出島に限って交易を認めました。
オランダは他のヨーロッパの国とは違って、キリスト教の布教と貿易は別にしていたので、入国を許したんですね。
このような閉鎖的な体制は、のちに「鎖国」と呼ばれるようになります。
日本では、いわゆる「鎖国」と呼びますが、これは明が行った海禁政策と同じこと。
なので、世界史的には日本の「鎖国」も「海禁政策」となります。
実際、完全に国を閉ざしているわけではないですね。
江戸幕府は、長崎では中国(明→清)とも交易を行い、琉球王国とは薩摩藩を通じて、アイヌとは松前藩を通じて、そして、朝鮮は対馬藩を通じて交易を行なっていました。
当初、日本の主要な輸出品は銀、続いて銅。
しかし、鉱物資源が不足すると、幕府はアワビやナマコ、昆布などの海産物を俵物として輸出するようになりました。
琉球王国とアイヌ
最後に現在の北海道(当時の蝦夷地)と沖縄(当時の琉球王国)について。
この当時、北海道と沖縄はまだ日本ではありませんでした。
蝦夷地のアイヌの人々との窓口になったのは松前藩。
1604年に徳川家康から交易独占権を与えられた松前藩は、アイヌの人々からサケ、ニシン、昆布、ラッコの毛皮などを獲得し、米、酒、タバコなどと交換しました。
15世紀に統一された琉球王国は、中国の明と朝貢関係を結び、中継貿易で栄えていました。
中国と貿易はしたいけど、中国の朝貢関係(先輩→後輩の上下関係みたいなもの)にはなりたくない、という国が、琉球王国を中継ぎとして貿易を行ったわけですね。
このように独自の文化を持っていた琉球王国ですが、1609年に薩摩藩の島津氏に侵略され、その支配下に入りました。
その後も、中国(清)との朝貢貿易を継続。
やがて江戸幕府や薩摩藩の意向を受け、日本向けの砂糖(サトウキビ)生産に力を入れるようになりました。
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