天皇はどのように日本の権力者になったのか?(日本史時代区分まるわかり2)

今日は時代区分の2回目。

今日のテーマは「天皇はどのように日本の権力者になったのか?」

日本史を語る上で、切って切り離せない存在が「天皇」。
今日は、そんな天皇が権力を握っていく古墳時代〜奈良時代を見ていきます。

古墳時代

弥生時代以降、人々は集団を作って定住し始めます。
このような集団のことをクニと呼びます。

このクニ同士が争い合い、大きなクニが小さなクニを飲み込んでいきます。
争いの多くは、川の水をめぐる争いだったと言われます。
田んぼを作って稲を育てるには、水が必要不可欠です。
クニ通しが、川の水が取りやすい場所を争って、各地で戦争が起きていったわけです。

権力が集中し、その支配者は自らの偉さを誇示するために古墳を作る始めました。

前方後円墳 いらすとや

近畿地方にヤマト政権と呼ばれる政権が誕生します。この支配は、現在の奈良県あたりを中心とし、西は九州から、東は現在の埼玉県あたりまでと、広範囲に広がっていたようです。

その中から、大王(おおきみ)と呼ばれる権力者が現れました。

実は、この大王がのちの天皇家の起源だとされています。

初代天皇と言われる「神武天皇」 いらすとや

このように、日本列島のなかで、ヤマト政権が最も力を持った国になっていきました。

飛鳥時代

さて、飛鳥時代になってくると、天皇家が政治を進めていくことが当然となってきました。

さらに、蘇我氏と呼ばれる権力者が協力して政治を進める時代がきました。

当時の推古天皇の甥だったのが、いわゆる聖徳太子(厩戸王)。彼は「馬屋(厩)で産まれた」とか、「一度に10人の話を聞き分けることができた」とか、様々な伝説が残っている人物です。

聖徳太子 いらすとや

聖徳太子は、蘇我氏の蘇我馬子と協力して政治を進めていきます。

彼の行った事として有名なのが、十七条憲法です。官僚として、大事にすべきことを明確にしました。当時、国の仕事をしていた豪族たちは、自分たちの一族の繁栄を一番に考えていました。そのため、「日本」という国のために尽くそうと言う気持ちは弱かったんですね。それを変えて、日本を一つにしていこうと進めたのが聖徳太子だったわけですね。

聖徳太子死後、蘇我氏が天皇家をも揺るがす権力を握り始めます。蘇我氏が聖徳太子の子孫を滅ぼし、天皇家に代わって権力を握ろうとしていたんですね。

この時、蘇我氏がさらに権力を広げていたら、もしかしたら蘇我氏が新しい天皇になっていたかもしれないのです。

そんな中で、天皇家に権力を取り戻すべき、と立ち上がったのが、中大兄皇子とその腹心だった中臣鎌足でした。

中大兄皇子(のちの天智天皇) いらすとや

彼らは、蘇我氏を滅ぼして、天皇中心の政治方針、大化改新を発表します。以後、天皇中心の政治が始まるわけです。

この国家作りの参考になったのが中国。当時、中国は「皇帝」と呼ばれる支配者が、法律をもとに政治を進めていく律令国家が発展していました。ここを参考に日本も律令国家をめざしていったんですね。

ちなみに、この時はじめての元号「大化」が定められます。

今の元号は248番目の元号「令和」。この時から、元号という仕組みはずーっと続いているわけです。

その後、中大兄皇子は天皇に即位し、天智天皇となります。

さらに、腹心だった中臣鎌足は、その働きを認められて「藤原」の姓を天皇からもらう。

「姓」というのは、今で言う名字みたいなものですね。天皇からもらう「姓」は、非常に名誉あるものだったのです。

以後、日本の歴史に大きな影響力を持つ藤原氏の誕生です。

飛鳥時代以降、このように天皇が日本の権力者となり、天皇中心の国作りがはじまっていきます。

今日の範囲のYouTube動画もあります。
コチラからどうぞ!

次回は、国づくりに積極的に仏教が導入された「奈良時代」からみていきたいと思います。

ではでは(^^)/

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