なぜ戦国時代は終わったのか?(日本史時代区分まるわかり7)

今日は時代区分の7回目。

今日のテーマは「なぜ戦国時代は終わったのか?」

そのことを理解していくため、織田信長についてみていきましょう。

戦国時代(織田信長の台頭)

戦国時代、勢力を大きくしていったのが尾張国(現在の愛知県)の織田信長でした。

織田信長 いらすとや

彼は、戦国大名の中でも、革新的な技術を導入したり、合理的な考え方で今までの習わしを壊すことで、権力を握っていきました。

自分の城下町である安土城の城下町に楽市令を公布。

今までは、商人が物を売るには制限が多かったのですが、安土城下ではこれを無くします。
そうすることによって自由経済を活性化させて、利益の一部を信長に納めさせます。

さらにこの当時、西洋から入ってきた鉄砲を活用します。
鉄砲を大量に導入し、当時最強と呼ばれた武田氏の騎馬隊を破ります。
これが長篠の戦いです。

京都を追い出されていた将軍足利義昭を奉じて京都に入ります。
戦国時代、室町幕府は滅亡していたわけでないんですね。
しかし、幕府としての権力を失い、京都を追い出されていたわけです。

有名無実化、名前はあるけれども実態はない、という状態でした。

そこで、織田信長が、将軍の代わりの武力になることで、将軍をサポートし、京都に侵入させ、幕府再興を目指すわけです。

京都に入った信長は、天下布武を宣言。
天下に武力を布(し)く。

つまり、天下に信長の武力をいきわたらせることによって、平和を実現させる、という宣言なんですね。
そして、安土城を建設し、天下統一の一歩手前までいくわけです。

しかし、家臣の明智光秀に謀反を起こされ討たれてしまいます。
いわゆる、本能寺の変ですね。

明智光秀 いらすとや

ちなみに、明智光秀は公家衆に顔が広く、将軍足利義昭を信長につないだのが彼だったのです。

光秀が信長を討った理由は日本史の最大の謎の一つといわれています。
実は、信長に対して恨みがあったのではないかとか、元々天下統一に対しての野望を持っていなのではないか、とか。

しかし、実際のところ、決定的な理由は見つかっておらず、更なる研究が待たれます。

安土桃山時代

その後、すぐに明智光秀を討ったのが、織田信長の家臣だった羽柴秀吉でした。

羽柴(豊臣)秀吉 いらすとや

秀吉は、元々百姓の子として生まれたといわれる人物です。
まさに才能で上り詰めていった「下剋上」を表したような人物でした。

才能で上り詰める、というと、ものすごく近寄りにくいイメージがありますね。

しかし、実際は非常に人に好かれる人物だったようで、信長からは「さる」と言われて親しまれていたようです。

そのほかの彼のあだ名の一つに「はげネズミ」というのがあったようですね。
あだ名というか。。。もう悪口ですよね、今の感覚では。

でも、そのぐらいの「侮られ感」があったからこそ、人の懐に入ることができ、出世していったのでしょう。

そんな秀吉が、信長の跡を引き継ぐ形で勢力を広げます。

秀吉が利用していったのが、朝廷勢力でした。
天皇ですね。

秀吉は自分自身の身分が低かったため、誰かに権威を借りる必要があったわけです。
つまり、自分より偉い人を利用していったわけです。
天皇の命令、ということで大名たちを従わせようとしていったんですね。

その後、天皇から豊臣(とよとみ)の姓をもらい、本人は関白に就任します。

その権威を背景に、地方の名だたる大名たちを従わせていきます。
有力なところでは、東北地方の伊達政宗や、関東の北条氏康などですね。

そして、戦国大名として初めて天下を統一を実現しました。

豊臣秀吉は天下統一後、朝鮮出兵を行いました。
その勢力を朝鮮半島、さらには中国大陸へも広げていこうとするわけです。

しかし、実際に現地で戦う家臣たちにとって、朝鮮や中国の土地に対してはあまり関心がなかったようです。
朝鮮出兵に対しては気乗りしていなかったようですね。
勝利して、「恩賞として海外の土地をもらってもなぁ・・・」という感じだったんでしょうね。

秀吉の死後、すぐに朝鮮出兵は取りやめられ、失敗に終わります。

実は秀吉は本気で中国進出を考えていたようです。
中国まで征服することができたら、新しい王朝を開いて、中国の皇帝として君臨しようとしていた、という説もあります。

そうなっていたら、今の日本と朝鮮半島、中国との関係も大きく変わっていたかもしれないですね。

今日の範囲のYouTube動画はコチラ。

次回は、そんな豊臣政権後に、権力を握った徳川家康の時代を見ていきたいと思います。

ではでは(^^)/

コメント

タイトルとURLをコピーしました