なぜ、武士が権力を握り始めたのか?(日本史時代区分まるわかり3)

今日は時代区分の3回目。
今日のテーマは「なぜ、武士が権力を握り始めたのか?」

その疑問をひもとくには、貴族が権力を握っていった歴史を見ていく必要があります。

では、今日は奈良時代から見ていきましょう!

奈良時代

大化改新以降、天皇中心の政治が進めれていきました。

しかし、遷都(都を引っ越しすること)を繰り返していたため、当時の中国を見習って、定住する都を作ることを決めます。
それが現在の奈良県に作られた平城京です。

奈良時代の始まりです。

聖武天皇の時代には、当時最先端の仏教を取り入れました。奈良に大仏をつくり、仏教の力によって、国を守ろうとしたんですね。
当時、疫病や政治の争いが多発していました。
仏教の力によって国を守るという考え方を鎮護国家といいます。

平安時代(前期)

奈良の後は、今の京都である平安京に遷都されました。以後、千年近く、京都が日本の首都となっていきます。

平安時代の始まりです。

天皇中心の政治から、天皇の周りの人々が政治にも大きな影響力を持ち始めるようになってきました。

貴族です。

貴族 いらすとや

貴族は天皇と血のつながりのある人々でした。
橘氏や、伴氏、菅原氏など、様々な一族がいました。

その中で権力を握りはじめたのが藤原氏です
藤原氏が他の貴族を追い出し始めるんですね。

平安時代初期は、藤原氏がどんどん他の貴族たち追い出していくんです。
その成果が実ったのが、平安時代中期でした。

平安時代(中期)

藤原氏が他の貴族を追い出し始めて以来、藤原道長と、その子である藤原頼通の父子が権力を握りました。

天皇の幼い頃の補佐をする役職を摂政と言います。
天皇が成人して以降、補佐をする役職のことを関白と言います。

この摂政と関白の役職を藤原氏が占めていく摂関政治を展開します。

藤原氏は、自分の娘を天皇に嫁がせて、天皇の子どもを産ませます。

その子どもが天皇になることで、藤原氏は天皇のおじいさんになり、権力を握ることができるようになったのです。

藤原道長が歌った歌で有名な歌

この世をば わが世とぞ思う 望月の 欠けたることも なしと思えば

は、この世が望月(満月)のように、欠けることもない。そのぐらい、自分の権力は揺るぎない!

という意味です。

さらに、その子である頼通は、京都宇治に平等院鳳凰堂を建てて、現世の極楽浄土を実現させます。
これは十円玉の裏面に載っている建物ですね。

平等院鳳凰堂 いらすとや

このぐらい、藤原氏の権力は揺るぎないものになっていったのです。

平安時代(後期)

しかし、藤原頼通の後、藤原氏は急激に権力を失いはじめます。

というのも、藤原氏の娘と天皇との間に子どもが産まれなくなってくるんですね。

さらには天皇家の中でも、藤原氏が権力を握ることを面白く思っていない勢力も出てくるわけです。

それが、上皇の出現でした。

上皇とは天皇の父親のことです。

今までは、基本的には天皇はずーっと天皇でした。しかし白河天皇が生きている間に、自分の息子に天皇の位を譲りました。
その結果、白河上皇となり、天皇を辞めた後も権力を握り続けたのです。

上皇が権力を握ったのは、歴史上初めてなので、今までの規定がありませんでした。
その結果、今までのルールに縛られない政治を進める様になっていきます。

さらに平安時代を通して、貴族や天皇は自分で戦わなくなっていった。

というのも、貴族は死や戦闘することを「穢れ(けがれ)」と感じるようになり、直接手を下さないようになっていったのです。

そこで使われていったのが武士でした。

武士は、貴族よりも身分が低かった存在でした。
犯罪者の取締りや、権力争いの実行部隊として使われていったのです。

特に、武士の中では平氏が度々遣われるようになってきます。
上皇の権力を背景に平清盛が権力を拡大していきます。

平清盛 いらすとや

平家は自分たちも貴族になることをめざしていきます。
その結果、他の武士が反感を持つようになります。

その不満を、源氏の源頼朝が集めるようになっていきます。
そして、源平合戦にて、源氏が平氏に勝利します。

その結果、歴史上初の武士の政権である鎌倉幕府を開くようになっていくわけです。

このように、武士が天皇や貴族たちの武力の肩代わりをすることによって、結果として権力を握るようになってきました。

以後、日本の歴史は700年近く武士が中心に動かしていくことになります。

今日の範囲のYouTube動画もあります。
コチラからどうぞ!

次回は、初めての武士たちによる武家政権、「鎌倉時代」をみていきたいと思います。

ではでは(^^)/

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