どのように戦国時代が始まったのか?(日本史時代区分まるわかり6)

今日は時代区分の6回目。

今日のテーマは「どのように戦国時代が始まったのか?」

では、今日は室町時代から見ていきましょう!

室町時代

3代将軍の足利義満(あしかがよしみつ)以降、室町幕府の支配が安定化していきます。
義満は、天皇家を一つにして、権力を拡大していきました。

さらに、有力な家臣たちを攻めて、自分のいうことを聞かせていきます。

足利義満 いらすとや

というのも、当時の幕府は、一応足利家から将軍を出していましたが、足利家と同じくらいの有力な武士たちがたくさんいました。

いつ、将軍家の権力を奪われるかわからないような状態だったわけです。

美濃・尾張・伊勢の3ヶ国を持っていた土岐康行。
全国66ヵ国中の11カ国を支配していた「六分の一衆」と呼ばれた山名氏清。

彼らを挑発し、討ち滅ぼし、権力を削り、名実ともに将軍家として君臨していったわけです。

そんな、室町幕府の安定が崩れていったのが、8代将軍足利義政(あしかがよしまさ)の時でした。
義政は、文化的貢献は非常に大きく、慈照寺銀閣(銀閣寺)を建てた人物でした。

慈照寺銀閣(銀閣寺) いらすとや

銀閣寺にある、東求堂同仁斎は4畳半の和室で、現在の茶室の原型になったとも言われる室内の様式でした。

しかし、義政自身は政治権力を握ることを嫌い、将軍権力を早く譲りたかったんですね。
子どもが生まれれば、その子に将軍職を譲り、自分は隠居するつもりだったのでしょう。

しかし、なかなか子どもが生まれず・・・。

そこで、他人に将軍職を譲ることを考えます。
弟の足利義視(あしかがよしみ)に将軍職を譲る約束をするわけです。

しかし、約束した矢先、子どもが産まれてしまうんですね。
義政の子が足利義尚(あしかがよしなお)です。

義尚の母親で、義政の妻、だったのが日野富子です。
富子は自分の子が将軍になって欲しいわけですね。
なので、義尚を将軍職につけようと画策します。

優柔不断な前将軍義政は、後継者を弟義視にするか、子ども義尚にするかをハッキリさせることができません。
有力な家臣たちに任せて、自分自身は銀閣にこもってしまうんですね。

その結果、起きたのが応仁の乱でした。
有力家臣たちが争って、自分の立場が有利になるように、戦争をはじめてしまったんです。

弟の足利義視を支持したのが、西軍の山名持豊ら。

子の足利義尚を支持したのが、東軍の細川勝元ら。

この戦いには大義名分がなかった。
つまり、戰いをするための明確な正義がなかったわけですね。
単純に自分たちが権力を拡大したいから、戦われたわけです。

はじめ西軍だった武将が、東軍に寝返ったり、その逆もあったり、ということで、節操のない戦いが行われていったのです。

その結果、京都が約11年間の戦乱に巻き込まれ、都は荒れ果てます。

さらに、その動乱は、地方へと広がり、全国へ広がっていきます。

戦国時代

応仁の乱以降、室町幕府が有名無実化します。
つまり、幕府はあるけど、いうことを聞かせられない状態になった。

首都だった京都でさえも、応仁の乱を抑えられていないわけですからね。
当然の結果です。
幕府も幕府で、地方を治めるどころではなかった。

その結果、全国的に治安が悪化します。
盗人や殺人などが起きても、誰も取り締まる人がいなくなってしまったのです。

そこで、それぞれの地域では「自分たちの身は自分たちで守る」ということが必要になってきます。

自分で自分の身を守ることができない、力のない人々は、地元の有力な武将などに身を寄せます。
これらの、それぞれの地域で権力を握った人々のことを戦国大名と呼びます。

甲斐(現在の山梨県)の武田信玄や、越後(現在の新潟県)の上杉謙信、近江(現在の滋賀県)の浅井長政や、土佐(現在の高知県)の長宗我部元親など様々な戦国大名が出現しました。

武田信玄 いらすとや

ここから、日本は戦国時代へ突入するわけです。

「下剋上」の世の中となり、実力さえあれば、のしあがれる社会になっていったのです。

今日の範囲のYouTube動画はコチラ。

次回は、この戦国時代から織田信長がのしあがり天下統一を目指した時代、安土桃山時代を見ていきます。

ではでは(^^)/

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